3日前はスイスママの誕生日、その次の日は義樹さんとの結婚記念日、そして本日は田崎健ちゃんの命日、
と5月の記念日は多い。美弦・彩香の誕生日も5月だ。
禁煙に向かう日々がかれこれ2週間以上になった。
3日間吸わずにいたり、1日に4本も吸ってみたり、と苦戦している。
が、自分のタバコを自分で新たに買う、という行為だけは、強くいましめているようで、
『あなたはいいのよ、糖尿病でも高血圧でもないんだから・・・
つきあって禁煙することはないのよ。さすがに目の前で、はきついけど、どうぞお吸いなさいな。』
(最近卓文さんの言葉をそのまま文章にすることが多くなって気付いたが、
会話の時には違和感は全くないものの、文章に書くと完全にオネエ言葉!)
と理解のあるお言葉。それで私のタバコは捨てなかったのだ。 (残り1箱半)
どうしても我慢できなくなると、オズオズと『1本くれる?』
私はもうかれこれ2年以上(あの秋の値上がりを機会にやめるつもりだったので)
外ではタバコを吸わない生活が続いていた。
そもそもビジネスモードのときにタバコを吸わない習慣は、義樹さんの妻だったころからあり、
半日、下手すれば夜帰宅するまで吸わないこともあったから、なんていうことはない。
朝出勤するときに私の目の前をくわえタバコのにーちゃんが歩いていれば、
『クサッ!』なんて思って小走りで追い越すこともしょっちゅう。
会社の喫煙室はヤニで汚れた薄暗い監獄みたいな雰囲気だから寄り付かない。
九州のお母さまのところにお見舞いに行っても、内心はビジネスモードだから2日くらいは平気。
だがリラックスプライベートタイムのスタート、というスイッチが入るとタバコが無性に欲しくなる。
そういう意味では自宅での休日が危険だったが、『一服』の代わりに『白湯一杯』で何とか納まった。
この『白湯』というのは今回の卓文さんの入院で新たな知識となったのだが、
順調な便通にはとても大切なことなのだ。
コーヒー・緑茶は尿になってしまうので、便を軟らかくするには役立たず。
利尿作用のない白湯・水・麦茶などがよいとのことで、試してみたら本当にそうなのだ。
スルスルと非常に順調。これも『一服』の代用の『一杯』で納得する理由となった。
さて、ところで卓文さん。
まだグズッている。どういうふうにグズッているかは、時間切れなので次回に書く。
退院して4日目の昨日、退院診察に病院を訪れた卓文さん。
経過良好とのことで、取り付けていたゴムを取り外してもらった途端に、座れない人が座れる人になった。
そしてその帰りに、いつもの川崎駅近くの立ち飲み居酒屋へ寄り、乾杯。そしてご褒美の一服(タバコ!)
実は卓文さんは入院中も持ち込んだPCで、喫煙の害や禁煙についてさまざまな情報を得ていて、
また退院後も吸わずにいた(本日判明したが、実は1本だけ見つけてこっそりと吸ったのだそうだ)
が、ひんぱんに『あ~~タバコ吸いたい!』『考え出すとずっとタバコのこと考えちゃうのよ』
と吸わないストレスを(禁煙パイプをくわえながら)訴えていた4日間だった。
言い分
1.翻訳中、難しい部分に差し掛かった時に気分を変えるための一服、
これなくして別な方法で、気分を変える手段を考えなくてはいけないが、思いつかない。
2.翻訳中、とても良く訳せた時に自分の能力に対し優越感を感ずるひとときを過ごすための一服、
これなくして別な方法で、優越感に浸る(と次の翻訳に取り掛る気力が湧く)手段が見つからない。
3.QOL(Quolity of Life)の観点から、喫煙している時に感じる充実感に替わるものが見出せない。
(ヨーロッパのレストランで食事するでしょ?
終わったら別室に行ってコーヒーあるいはコニャックを、葉巻をくゆらせながらいただく、
これがジェントルマンの完成なのよ。ライフスタイルなのよ。)
4.確かに入院10日間の禁煙で、ニコチンは体内から消滅してはいるだろうが、
自分の意志で【やめよう】と決意したわけではなく、入院による必然としてニコチンが切れただけ。
強く『やめよう』という思いになる理由が見つけられない。
などとグダグダ言い続けていたのだ。
こうなると、ニコチン依存症ではなく、生活習慣を変えたくないガンコ爺の性格、ということになる。
だから私も実は、『あぁ・・禁煙はやっぱり難しいかなぁ・・・』と危惧していたのだ。
ところが!!
昨日に手渡した入院前の吸いかけタバコ(8本入)を吸い終わったらやめるかぁ、と言いながら、
昨夜から今朝にかけて、3本吸った(本人申告)あとで、日課になっている血圧を測った。
そしたら何と! 下も上も急に20もアップして、いきなり 90~150 台の高血圧になったのだ!
その数値をみた途端に卓文さん、
『えっ! これなら辞められる! タバコのせいでこんなに血圧高くなるんだ! うん辞められる!』
という結論になった。
(入院中も退院後もずっと良好で、70~120 台をキープしていた 低い時は60~110台)
(但し、こっそりと1本吸ったあとは少々高かったらしいが黙っていた・・・)
逆説的な方法だったが、結果としては強く禁煙の意志ができたから、
終わり良ければすべて良し、ということにしよう。
昨日病院に行ったら、硬膜外麻酔も取れ、自力でトイレにも行けた卓文さん。
排便を即す軟便剤(成分を見たら『センブリ』配合の下剤)の効果で『カレールー』状の便が出たとか。
よしよし、順調。
4人部屋でひとり退院、2人新入り入院で2番目のベテランになった卓文さんだった。
入院当日に預けたセイフティボックスの財布を取り出して買い物をしようと思って、
セイフティボックスを開けた途端に、財布が『タバコくさい!!』ことに気付いた卓文さん。
我が家の『タバコくささ』を改善するには、まず、
カーテンを洗う、壁を磨く、衣類をすべて洗濯する、を実行しなくてはいけない。
昨年正月、ゼロとスイスママが来訪し、その時間は私たちはタバコを遠慮して、外で喫煙していたが、
部屋そのものがタバコ臭かったらしく、2日目に来訪したゼロ曰く、
『昨日と同じ服でごめんね、洋服がタバコ臭かったから洗濯の手間を省くために同じ服で来たのよ』
とのご託宣だったのが、思い出される。
同じく、麗奈に送った宅急便の段ボールが、『着いた途端に箱がタバコ臭かった!』
これもこの家のタバコ臭さ原因。
これを改善するには、しばしの時間が必要と思われる。
ともかくも禁煙というよりは、喫煙習慣のない自宅を形成するには、しばしの時間が必要と思われる。
9:10 病院到着。
予定より少し遅れて、11時に手術室に入る。それから腰椎麻酔・硬膜外麻酔の後に手術開始。
12:00に終了し、執刀医の副院長先生から説明を受けた。病巣は中指の関節1つ分くらい。
痔ろうと痔核をまとめてとりました、とのことだった。
あれだけばっちい血膿が出ていたんだから、もっとばっちいものを想像していたのだが、
先生が指で押すとコロコロとした感触のきれいな色の肉片だった。
そのあと病室に戻ってきた卓文さん。点滴の中に入っている眠り薬のせいか、こんこんと眠る。
1時間に3回のペースで看護婦さんが血圧・出血状態の偵察。出血も少なく問題なさそう。
とうとうわたしが帰るときまで眠り続けた。痛みはまったく感じないという。
パパの手術の時も『ふしぎなくらい痛くないんだよ』と言っていた硬膜外麻酔の効果はそら恐ろしい。
48時間はその麻酔が効いているそうな。
今夜の夕食は栄養補給用ゼリー状の飲み物(ウィダーみたいなもの)
ウィダーだけの卓文さんには悪いが、私は帰りに駅のそばの『和食の藍屋』で手術成功の祝杯。
春限定山菜てんぷらと筍ご飯ご膳と焼酎のお湯割り1杯飲んで、ほろ酔いで帰宅した。
明日はもう通常の面会時間の14~19時までだから、少々家のことをしてから行きましょう。
多分、一族が心配しているだろうと思い、入院1日目の報告。
昼に入院手続きをして、そのあと診察だの検査だの説明だの、とまったりした退屈な時間を過ごし、
ロールパン1個、粉末をお湯に溶かした(卓文さん談)コンソメ、トマト&ツナ缶のサラダの『OPE前食』
そのあとは下剤を飲んで排便数カウントを命じられ就寝、『退屈だ』のメールが最後。
明日は8人目で10:40頃の手術、と伝えられ、私は9時半頃病院に行くことにした。
さすが日本有数の肛門専門病院で、日本中から研修医が研修に来るという病院。
9時から始まったとしても、ひとりいいとこ10分くらいの手術時間と思われる。
ネットでいろいろ調べたが、慣れない医師は2時間くらいかかる手術だとか。
それがものの10分で終わる。職人の世界だ、とつくづく感じ入る。
とは言っても、卓文さんの65年の人生で、初めての入院生活、と同時に、私の初めての一人横浜生活。
寂しいのか不安なのか定かではないが、なんだかひとりでここにいるのは宙ぶらりんな落ち着かなさ。
まぁ明日からはせっせと看病をし、これをチャンスに禁煙しようという卓文さんと一緒に、私も禁煙予定。
3月は忙しかった。
休日のたびに、お散歩か病院通い。
4月末の本物手術のための検査や1泊入院、その後の通院など、休日のたびに外出し、
定期的に通わなければいけない病院が3院。楽しいことも憂鬱なことも体験した。
その1日入院で病院食を食べた卓文さん、あまりの不味さにがっかり。
10日に及ぶ本物入院が一層憂鬱になってしまったようだ。
その間にも世界中の一族はいろいろと多忙だったようだ。
スイス勢はインフルエンザに見舞われ3人ともダウン。
4月に入って、無事スペインに行けたのだろうか。
電話してみたが出ないところをみると、とりあえず回復してスペインに行ったようだ。
娘1号は東治が一年生になって写真を本日送ってきた。
いやはや感慨深いものがある。
このPCの前で毛布にくるまれて(ひとりでは座れない赤子だった)画面を見ていたのはもう6年前だ。
函館で生まれた志帆を見にいったのが、もう3年前。
その志帆が、昨秋から言っている幼稚園で本日入園式。
ぎゃんぎゃん泣いている新入生のおねえちゃんたちを『よしよししてあげてきたよ』との報告。
娘2号も重なる大病にもめげずに、せっせと勉強をして、あさって私は2回目の手モデルに行く。
日ごと日本語の習得に余念がない美紗を育てながらネイルサロン開店を目指し、着々と準備中である。
4年前に生死の淵から帰還した新潟パパは『わっはっはっ』と哄笑しながらますます元気だ。
今成家はもうふたりとも中学生。それぞれの道を歩んでいることだろう。
私ももう61歳になる。義樹さんのもとを離れて12年がたった。
健康に障害はないが、それでも年相応と思うことがいくつもある。
一族の健康と幸せを祈念して筆を置く。